由来
寛永十七年
宮本武蔵は、肥後の細川忠利侯に招かれ、細川藩の軍事顧問として細川家の客分となった。
翌年、忠利侯の命をうけ「兵法三十五箇条」を献上する。
二年後、十月十日に「兵法三十五箇条」を骨子とした『五輪書』を霊巌洞に籠り執筆。
二天一流は世にいわれている二刀流ではなく、構えあって構えなしの片手剣法が武蔵の真意である。武蔵は、肥後の地で春山和尚より二天道楽という号を受け、その二天をとり二天一流を名付け、いわば「武蔵の一流」という言葉で流派名を使い、『五輪書』を書いた時点でわが兵法を二天一流と号した。のちに二天一流は肥後藩内の相伝として確立され、若き日から壮年期における実戦の体験から得た「円明流」並びに「兵法三十五箇条」を再吟味し、最後に『五輪書』「水の巻」に完成された二天一流「五方の形」こそ武蔵の残した「実相円満之兵法逝去不絶」と自称の如く完璧なるものである。
武蔵の他界後、門弟たちは伝統を五流派に分け、藩外不出として後世に伝えられ、野田、山尾、山東の三流派が継承された。明治から昭和にかけ断絶あるいは再興、県外流出の流派もあり、現在では師範家として野田派のみ肥後藩門外不出として武蔵先生の教えを守り続けている。
流儀
打太刀は無声による静・動・寂と一の形をくり返し、仕太刀のゆるやかな振りは刃筋を立てた刀法の理の極致を示し、仕太刀の発声は「ズウー」「タン」「ヘッタイ」と聞きなれない発声である。「ズウー」とは大きな威力の状態を表し、「タン」とは断の意で、「ヘッタ」とは絶対の意味で、演技の柔軟さは他の派にみられない幽玄さを示し、見る者を「能」の世界に引き入れる感じを与える活人剣である。
系譜
流祖・新免武蔵守藤原玄信 (宮本武蔵。号は二天道楽。)
→寺尾求馬之助信行 →新免弁助信森 →村上平内源正雄
→村上八郎右衛門正之 →野田三郎兵衛種信 →野田三郎兵衛種勝
→大塚 庄 →大塚 又助 →野々村 市作
→伊津 十内 →野田 三郎八 →野田 辰三郎
→加納 軍治 →指田 次郎 →古賀 徳孝
→志岐 太一郎 →一川 格治 →神尾 宗敬
→大浦 辰男 →井上 光芳 →荒木 章博